底辺ネットライターが思うこと

思うことをひたすら書くだけ

なけなしのユーモアをぶつけて粉々に砕ける

増田に記事を書いて、このブログを始めて、大体一週間が過ぎた。

この記事がこのブログの1記事目となった記事だけれど、改めて読むとすごく昔に書いたように思える。

teihen-writer.hatenablog.com

あれからまだ一週間と少ししか経っていないというのが、にわかに信じられない。この数日前には、「もうブラックな仕事を受けたくない」と布団で一人震えていた。心からギリギリと軋む音が聞こえるような気がしていたのを、覚えている。

ここしばらくの間、一度は忘れていたセクハラやパワハラを受けた時の環境や感情を鮮やかに思い出していた。「あいつがいなければ私はまだあの職場で働けていたのに」と憎悪が蘇っていた。「人を恨み憎むことが人生で一番不幸なことだ」とわかっていたはずなのに、私はまたこの落とし穴にはまってしまっていた。喉元過ぎれば熱さを忘れ、新しい熱さで昔の火傷を思い出す。

恐ろしいのは、現在の当事者であるクライアントAを憎むではなく、それを飛び越えて過去のセクハラ野郎を一番憎んでいたことだ。

皮肉な話だけれど、このセクハラがなければ、私は今の夫と出会えていない。セクハラがきっかけでパワハラが起こり、結果その会社を辞め、夫がいる会社に入社したから。

今の夫は、これ以上に信頼できる相手はいないと思えるほど素晴らしい人だ。ネガティブな愚痴ばかりをぼろぼろとこぼす私を、懸命に励ましてくれる。理不尽な八つ当たりをしても、受け止めてくれる。本当に嫌な妻だと自分で思うけれど、全部許してくれる。たまにバカだなぁと呆れることもあるけれど、思い返せばそれすら夫の魅力なのだと思う。夫のバカさ加減がなければ、私の心は一度も救われていなかっただろう。

そんな相手に出会えたのだから、あんなにも酷かったセクハラ事件すら私の人生には必要なことだったのだと全てを許すつもりになっていたはずだった。なのに、また恨んでいた。何ヶ月前か忘れたが、今年に入ってから、パソコンに保存したままになっていた裁判資料を意味もなく読み返して泣いていた日もあった。まだ傷は完全には癒えていないのかもしれない。かさぶたをめくればまだ血が噴き出してくるぐらいなのかもしれない。心の傷は見えないから、癒えたかどうか誰にもわからない。悲しい。

今はクライアントAからの仕事は体調不良で断り、別の会社から受注している仕事をちまちまとこなしている。これが本当に心が洗われる思いになる。大したことは書いていないのだけれど、ブラックなことをそそのかさなくていいというそれだけで、とても安堵するのだ。私は相当な小心者なのだろう。ブラックなことをそそのかすということが、嘘をつかなければいけないという日々が、本当に恐ろしかった。その日々の恐ろしさ享受し、麻痺し、恐ろしさを感じなくなって日々を過ごし、改めてそれが波のように思い出された。ギリギリという音が止んでバリンと割れる音が聞こえた。私の心の中の何が割れてしまったのだろう。

こうして書いて書いて書き散らかして、恨む相手を間違えていたこと、そもそも恨むことが私に何ももたらさないことを思い出せた。安直な言葉だけれど、本当に「良かった」と思う。

まだクライアントAに話をつけていないので、それに関して書くことはまだない。

悲しい悲しい、辛い苦しい、で始まった私のブログだが、私だって悲しいことが好きなわけではない。喜ばしい面白いことの方がもちろん好きだ。なので、このブログも少しずつ「面白い」「嬉しい」記事で埋めていきたい。

そういう気持ちから、この記事

teihen-writer.hatenablog.com

のラストに、私のなけなしのユーモアで「このお話はもうちょっとだけ続くのじゃ」をぶち込んだ。そこに反応してくれた方がいらっしゃったので、それはとても嬉しかった。

ユーモアで書いたことをいちいち説明するのは恥ずかしいことかもしれない。そんなことは知っていると思われるかもしれない。けれど、敢えて言うと、このセリフは「ドラゴンボール」の物だ。読者が「これで最終回かな?」と思うだろうとあるシーンでぶち込まれた亀仙人というキャラのセリフだ。初めて読んだ時はまだ小学生だったが、子供ながらにこのセリフには衝撃を受けた。

今思えば、初期の「ドラゴンボール」には「それでいいんだ!」と思わせる展開が多かった。ドラゴンボールはバトル漫画だが、男の子・クリリンが「不潔すぎて臭すぎて近付けない」対戦相手に攻撃ができず苦しむシーンがあった。そこで主人公・悟空が「お前は鼻がないだろう!」というアドバイスをする。クリリンは気付く。「そうだ!僕には鼻がない!臭くない!」

そうして彼は臭い相手に勝利する。ものすごく衝撃的だった。

確かにクリリンに鼻は描かれていなかった。ただイラストのバランス重視で省略されているだけだろうと思って読み続けてきたのに、「鼻がない」と断言されたことが、本当に衝撃だった。それに、アドバイスをもらうまでは「臭い」と苦しんでいたはずなのに、「鼻がない」と言われた途端、「臭くない!」と気付く。そんなことがあっていいのだろうか。漫画を漫画だとして描く鳥山明の作風に、呆気に取られた。アニメなのにアニメじゃないと歌うアニメがある中で、ドラゴンボールは漫画は漫画だと言っているようだった。

思春期に読み返した時は「こんな展開、リアリティがなさすぎて信じられない!」と思ったこともあったが、そもそもドラゴンボールにリアリティを求める方がお門違いなのだ。大人になって気付いた。

今は、これぐらい思い切って作品を作れた方がいいのだろうと思う。やはり「書(描)いていて楽しい!」という気持ちは「読んでいて楽しい!」に直結する。(時に独り善がりになることもあるけれど)

コメントに「一番の読者は数年後の自分です」と書いてくださった方がいたが、本当にそうだと思う。「あの時は苦しんで書いていたなぁ」と思うのは、一番面白くない。読み返したくない。以前の仕事を辞めてから書いたシナリオは、自分に対して厳しくなりすぎて、書いていて楽しくなかった。「こんな展開はリアリティがない」「こんな奴はいないだろう」私の頭の中にいる評論家が、私の作品を批判する。そうして苦しんで書いたシナリオは、自分でもがっかりするぐらい面白くなかった。そうしてシナリオを書く気が失ったまま、底辺ネットライターを始めてしまった。しばらくシナリオは書いていない。頭の中でぼんやりアイデアが浮かんでも、それだけで終わってしまう。

今、私が楽しく書き散らかした文章にポジティブなコメントをくれる人がいる。私の「楽しい」が伝わっていることが、とても嬉しくて楽しい。こういう気持ちだったなと思い出す。

こうしてどうでもいいことを書き始められたことは、私にとってとても楽しく嬉しいことだ。こんな文章、久しく書いていなかった。何でこんなに楽しいことを忘れていたのだろう。心を亡くしていたのだろう。

せっかくなけなしのユーモアをぶち込んだのに、こんな悲しい〆をしてしまいそうになるのは、私が真性のネガティブだからだ。楽しい嬉しい面白いがもちろん好きだけれど、ネガティブはネガティブだ。すぐに物事を悲しい方に考える。自覚している。なので、夫以外と話す時はできるだけネガティブだとばれないように明るく振る舞っている。けれど、親しくなったらぽろりとネガティブが顔を出してネガティブだとばれる。それでも私と仲良くしてくれている友人は、宝物だ。夫にはとっくにネガティブだとばれているので隠すことはない。世界で一番正直に何でも話せる相手だ。

話が明るい方向になってきたのでここで終わろう。このブログ初の「明るい〆」だ。