底辺ネットライターが思うこと

思うことをひたすら書くだけ

悪化の迷路とひどくなる発作

一昨日の昼前、11時過ぎぐらいだろうか。それぐらいからPTSDの発作が始まって、12時半頃、ようやっと治まった。

文章を書く仕事をする、ということは、私がやりたいことなのだけれど、自営業である、ということは、私が生きていくうえで貫かなければならないことなのだろうと思う。だって、発作が起こる度に休んでいたり遅刻したりしたら、組織にはいられないでしょう。私はずっと、いつでも独りになれる状況にいないと、生きていけないのだと思う。なんて恐ろしいステータス異常だろう。

いくつになっても、辛い痛い酷いことは、起こる。恐ろしいことに、複雑性PTSDを患っていると被害に遭いやすい人格形成が行われるらしい。だからだろうか。そういう目に、よく遭う。

今年に入って少しした頃から、じわじわとPTSDが悪化した。

今、ようやくこれ以上の悪化を食い止めて、回復に向けて尽力できる場所にいる。

悪化の一途を辿っている最中よりも、悪化したということを自覚して、発作に耐えなければならない状況の方が、辛い。

おかしなことに、悪化の一途を辿っている時はいっそ「ラク」だ。思考に異常なバイアスがかかって物事の判断基準が狂う。自らを痛めつけるような間違った選択でも、何かしら理由を付けて正しいと思い込むことができる。

そしていよいよぶっ壊れる。

ぶっ壊れると、体が思い通りに動かなくなる。頭も思うように働かなくなる。

間違った選択で迷い込んでしまった迷路から逃げたくなって、走り出す。この時、誰かしらが「こっちだよ」と出口に導いてくれて、事なきを得ることもある。けれど、「お前が自ら迷い込んだのだから、一生そこで迷い続けていろ」と言われて、その場に座り込んでしまうこともある。そうして歩く気力をなくしてそこで死んでしまう人がいる。

私がこれまで死ななかったのは、なんとなく横にある壁がよじ登れそうな気がして、よじ登って、迷路から脱出できていたから。

その壁はざらざらと、とげとげとしていて、体が傷だらけになる。「迷路なのにそんな方法で出ていくなんてルール違反だ」と怒る人たちに罵倒される。それでも生きるために、壁をよじ登る。

迷路から出ると、世界は広く広がっていて、ああ迷路ってこんな小さな箱だったんだと思う。

これまで大事に背負ってきた荷物や、あらゆるものをその迷路に置き去りにしなければならない。二度と取りに戻ることは叶わない。迷路まで辿り着くまでの道にも戻れない。どれだけそこに大切なものがあったとしても。

それでも、死ぬよりはましだと割り切ってそこを後にするしかない。そうして私は今、傷だらけで今ここで生きている。

 

発作は、苦しい。

不思議なことに、何もされていないのに、体が震えて、肌がぎりぎりと痛み始めたり、誰もいないのに、何も聞こえていないのに、頭の中が他人からの罵倒でいっぱいになったりする。

蹲り、じっとそれらが過ぎ去るのを待つのが、最も早く発作が過ぎ去る方法。過ぎ去らなければ、頓服薬を飲む。そうして少し眠れば、頭の中が空っぽになった状態で起きることができる。それは決して気分が良い訳ではなく、喜怒哀楽の一切を失って、辛いことすら辛いと思わなくなって、それが正しいのかどうかはわからない。ただ、今「辛い」から逃げられるだけ。

私はもう慣れてしまっているからか、これがこの病気の人の普通なのか知らないけれど、「ああ、やばいな」と思い始めてからでも、普通を装って行動することができる。

買い物中にこうなることも割とよくあって、そうすると、自分が何を買いたいのか、何を買っているのかということがわからなくなるも、傍から見れば普通に買い物をしているようにしか見えないだろうという風に装うことができる。

けれど、頭の中はパニックだから、帰宅するという判断も冷静にできない。あそこに行かなくちゃ、あれも買わなくちゃ、と、余計にあちこちに足を向け始め、体は疲弊しきってしまう。下手すれば知らないところに行ってしまって帰れなくなることもある。

一昨日は、偽物の痛みと声に震えながら、普通に仕事のやり取りをしていた。電話もたくさんしたけれど、多分、誰も気付いていないだろう。そうしている間に、止めどなく膨らんだ偽物が、爆発して、私は動けなくなる。時に、何かがその火の点いた導火線を切り落としてくれることもある。一昨日は、誰も何も切り落としてはくれなかった。

爆発して、「痛い」とか「やめて」とかを繰り返しながら蹲っていた。

けれど、薬を飲むところまではいかなかった。私を助けたのは、独り暮らしを始めて書くようになった日記だった。

日常の出来事を書き留めるのはもちろんのこと、発作が起こった時に、その時の感情を書き留めるようにしていた。一昨日も、書いた。「どうして殺してはくれなかったのだろうか」で、終わっている。

いつも酷い目に遭う度に思う。そうして蹂躙するのなら、いっそ殺してくれたら良かったのにと。けれど、殺されたら殺されたで絶対に化けて出てやるから、絶対に誰も私を殺してくれるな。私は死ぬまで生きてやると心に決めているから。その権利まで奪われてなるものか、と、発作の治まった今は思う。

悪化の一途を辿っている時と同じ異常なバイアスが、発作中の私を支配しているのだろう。幸い、他傷ではなく自傷方面にバイアスがかかっているから、良かったと思う。もし万が一自分を傷付けてしまったとて、罪に問われることがない。例えそれがこの世の最も重い罪で死後の世界で地獄の責め苦を受ける羽目になろうとも、人の生きる世界で、責められることはない。

日記を書いていると、息が荒くなって、涙がぼたぼたとこぼれてくる。けれど、ペンを進めているうちに、どこかのタイミングでぴたりと書くことがなくなる。そうしてしばらくじっとしていると、呼吸ができるようになって、飲み食いできるようになる。飲み食いで気を紛らわせながら、さぁ薬を飲もうかどうしようかと悩む。飲んでラクになる時もあれば、飲んでしんどくなる時もあるから。

日記は、良い。

今まで気付かなかったことに、不思議と気付き始める。冷静に客観的に自らを振り返って、「異常な思考バイアス」にも気付けた。

ずっと、ずっとずっと、生きてきてこれまで、過去や未来を思考から切り離せたことがなかった。ずっとそれらがまとわりついて、現在を見ることができなかった。

最近、時々だけど、「現在」に立ち止まっていられる瞬間がある。

すべての物と人の輪郭がはっきりとして、澄んだようにすら思えて。何も考えず「今現在」のことだけしか見えず聞こえず考えられず。

これがきっと一般的な感覚なのだろうと、泣きそうになった。ずっとそのままでいたいと思ったけど、すぐに感覚はぼやけて思考に囚われていった。

辛い痛い酷いことはたくさんある。けれど、生きていれば楽しい嬉しいことだってある。「殺してくれ」と呟いた後で「死んでたまるか」と唸る。そんなことをずっとずっと繰り返している。

早くこんな独り言、やめたい。もっとのんきに「鶏皮おいしい」とかだけ言っていたい。最近は水切りヨーグルトにもはまっているけれど。

もうそろそろやめられるかと思えば、辛い痛い酷いことが起こる。悪化する。そういうのを繰り返して、私はどこまで生きていられるのだろうか。

できれば、死ぬまで生きたい。誰にも殺されずに。

叶うなら、もう少し心健やかに穏やかに。

けれど、何がどうあったとしても、私がどう動いたとしても、「辛い痛い酷いことをする人」とは同じにならない。なれない。一緒にしないで欲しい。例えば私が何か報復をしたとしても、絶対に私たちの魂が同じ場所に眠ることはない。しないけど。

それが、そういう人たちに伝わったら少しは心がラクになるのになと思う。

あと、こういう心の動きは「ひとつのパターン」だとみなされて、普通の人だとして扱ってもらえたら随分ラクになるのになぁと思う。常識ってなんだろう。普通ってなんだろう。辛い痛い酷いことをされたら普通じゃなくなるって、本当に酷い話だ。