底辺ネットライターが思うこと

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複雑性PTSDとドーパミン

私はPTSDだ。恐らく、複雑性の方。

複合的な心的外傷後ストレス障害 (C-PTSD) は、暴行、性的虐待家庭内暴力拷問及び戦争のような長期の対人関係の外傷に起因する臨床上で認識された病気である。 

複雑性PTSD - Wikipedia

恐らく、というのは、きちんと診断されたことがないから。

該当する体験があり、症状がある。けれど、診断というものを受けなければ断定してはならないらしい。だから私は「恐らく」だ。

裁判をする際に病院から出してもらった診断書には「PTSDだと判断できる材料がある」程度のことを書いていただいた。当時は、PTSDだと診断することも大変だったから。もう十年ぐらい前かと思うと、不思議な気持ちになる。

診断されてもされなくても、私はどちらでもいい。複雑性PTSDという概念が存在していて、私がそれに当てはまり、本やネットでそれの対処や研究などを見ることができれば、それで。他者に認められることはどうでも良くて、私が私の状態を認識するための手段として、こうした情報を活用したい。

「それ」だと定義されるための情報を読めば読むほど、ああ私だ、と思う。それは私が特別なのだと思う訳ではなくて、こうして何かしら定義されるほど、私はありふれたものなのだと思える。それが嬉しい。私は「人」なのだと。

複雑性PTSDのことを調べている最中にこんな言葉にも出会った。

アダルトサヴァイヴァーもしくはアダルトサバイバー(Adult Survivor)とは、幼少期に機能不全家庭で育ったり、成長の過程で心的外傷を負わされたことにより、何とか生き延びて思春期・成人期に達してはいるものの、人間成長のどこかの段階を喪失したために、その好ましくない影響を心身に色濃く残している人々をいう。

アダルトサヴァイヴァー - Wikipedia

そうか、私はこういう立ち位置なのかと思えば腑に落ちる。私はそもそも性質が違う生き物なのだと思えば、私は社会の中で自分の身の置き所を「人」とは違うところに置くことができる。

「人」であるために、「人」とは違うところに自らを置く。今の私の処世術をまとめると、そういうことなのだと思う。

話は複雑性PTSDに戻る。

心療内科に行けば、薬を出される。ようやく薬が1種類になって落ち着いているのに、これ以上、薬を増やしたくない。

昨年、あらゆる事件を彷彿とさせる恐ろしい事態に直面した時、以前に飲んでいて残っていた薬を服用したことがあった。頭がぼんやりとしてふんわりとして、ぶあつくて柔らかい繭のようなものに包まれているような感覚で、事件と共に自分の輪郭がぼやけた。やっぱり、もう飲みたくないと思った。以降、救心に頼っている。責任世代のプレッシャーが助かるのであれば、私も何とかなるかもしれないと思って。効いているかどうかは知らない。気休め。

今私が常用しているのは、コンサータという薬。

これはPTSDの薬でもなければ精神安定剤でもない。ADHDの薬。

ADHDの症状は過剰に分泌されるドーパミンが再取り込みされることで表れている」という説に基づき、その再取り込み口に蓋をしてやろうという仕組みのもの、らしい。

私はコンサータを常用し始めて随分とラクになったので、ああ、私はADHDだったんだ、と思っていた。実際にそうなのかもしれないと今でも思っている。色々ぶっ飛んでるし。

しかし、最近知った。

PTSDの症状として、怖い思いをした時にドーパミンが放出される」というようなものがあるらしい、ということを。

戦場でPTSDを患った人が銃声を聞いた時にドーパミンが放出されたとか。詳しくは知らない。

ちらほらこれまでブログにも書いてきている通り、私は幼い頃からおかしな子供だった。それはADHDだからなのか、PTSDだからなのか、わからない。PTSDの原因だろう事件が物心つくかつかないかの頃のことだから、そうかもしれないし、そのこと関係なくADHDだったのかもしれないし。

そうした人生を過ごして30年と少し、2年前ぐらいだっただろうか。自分がPTSDではなくADHDではないかと疑い始めたことがあった。その際、コンサータを処方してもらった。

テストの結果、能力的には問題なかったにしろ、普段の生活にADHDに該当する症状があるということで処方してもらった。

それ以来、コンサータを飲み続けているが、随分とラクになった。今まともに生活できているのは、コンサータのおかげだと本気で思っている。

こうした経験と「PTSDの症状の1つとしてドーパミンが過剰放出される」というぼんやりとした情報から、PTSDの治療にはドーパミンをどうにかしてやることが効果的なのではないかと、ふと、思った。

と、こうして突然こんなことを書いたかというと、PTSDドーパミンの関係を最近知ることがあり、ドーパミンって怖いなぁ、と思ったから。

人の体の仕組みを知れば知るほど、なんて現代社会に不似合いなのだろうと思う。安全に生きることを前提として生きているから、何事かに見舞われた時、対処できない。

では何事かに見舞われる前提で生きればいいのかと考えてもみたけれど、それはそれでまともではない。常にナイフを振り回しているような人になってしまう。

ではどう生きれば現代社会に適しているのかと考えてみて、何事にも見舞われない前提で朗らかに生き、何事かに見舞われた時に冷静に現実を見据えることができればいいのだろうろ思う。

その何事かが何なのか、それを自らと、現代社会のシステムの中でどう処理することが適切なのか、冷静に。それが容易にできれば、誰も苦労はしないのだけれど。

私だってぐだぐだとこんなことを書き散らかしながら何にもできてなどいない。ただ、今の、文字をひたすら書き散らかす生活を気に入ってはいる。