底辺ネットライターが思うこと

思うことをひたすら書くだけ

底辺ダイバー

最近、体を鍛えている。

事の始まりは、キーボードを打っている最中に手が疲労し始めて「もう書けないよ~」となったことだった。

「底辺さん!新しい腕よ!」と投げてくれる相棒がいないため、ずっと書き続けられるように、ストレッチゴムを持って毎朝のウォーキングを始めた。気が付けば、直線を見つけては走るようになっていた。生まれて初めて、走ることが楽しいと思える時期を過ごしている。

体を鍛えれば鍛えるほど、脳に血が回っているのか、頭の回転も良くなったように思える。

ずっと表層をうろうろとしていた意識が、すっと奥の奥まで沈んでいくような感覚を、おおよそ十年ぶりにここしばらく味わっている。この感覚に陥ると、筆が進み、寝食を忘れかける。ふっと力を抜いた時、倒れるように眠る。まるでそういう動物のようだ。ハチワンダイバーが途中まで無料になっていた時期に読んだけれど、あんな感覚が近いと思う。

あそこに潜っている時は、本当に心地良い。辛いことも苦しいことも嬉しいこともどうでも良くなって、ただひたすらに手を動かす。小説を書いていると、辛いことや苦しいことを思い出しながら書くこともあるけれど、その時ですら、その気持ちは自分のものではなくて、他者のものであって、私はそれを俯瞰して実況中継しているような気持に陥る。これが、人によっては「キャラクターがしゃべり出す」という奴なのだろうと思う。

それはさておき、最近、青空文庫でちらほらと小説を読み返した中で、『人間失格』のこのくだりに、とても共感した。

人間に対して、いつも恐怖に震いおののき、また、人間としての自分の言動に、みじんも自信を持てず、そうして自分ひとりの懊悩おうのうは胸の中の小箱に秘め、その憂鬱、ナアヴァスネスを、ひたかくしに隠して、ひたすら無邪気の楽天性を装い、自分はお道化たお変人として、次第に完成されて行きました。
 何でもいいから、笑わせておればいいのだ、そうすると、人間たちは、自分が彼等の所謂「生活」の外にいても、あまりそれを気にしないのではないかしら、とにかく、彼等人間たちの目障りになってはいけない、自分は無だ、風だ、そらだ、というような思いばかりが募り、自分はお道化に依って家族を笑わせ、また、家族よりも、もっと不可解でおそろしい下男や下女にまで、必死のお道化のサーヴィスをしたのです。

私の書いているこうした文章を知らない人は、私がとんでもない楽天家で悩みがなく、強運だけで人生のあらゆるを獲得していっていると思っている人が多い。それを言われても、いちいち訂正することなく、「そうなんです。人生楽しい!」と返事をしてやり過ごすし、こうした部分に気付いた人には「そうなんです。夜中にポエムとか書いちゃう系です!」と返事をして仲を深めている。

仕事で書いている記事はとにかく媒体によって文体も論調も変えるので、本来、放置したらどのような文章を書くのかを知っている人は少ない。

人間に対する最後の求愛。人を愛しているがゆえに愛されたく、『ナアヴァスネス』や『憂鬱』をひた隠しにしなければならないと思う。こうした性質を常に剥き出しにして振る舞うのは、どうしても、乱暴なように思えてならない。自分が常人と狂人の間、もしかすると狂人に近いかもしれない立ち位置にいると自覚して、常人であるように、近いように、なじむように振る舞わなければならないと。

一部の方がお察しの通り、私は離婚した。成立したのは昨年の下半期で、去年一年、夫と共に暮らしていない。

このブログの一記事目にも別れの片鱗が実はちらりと出ていたけれど、私は夫を愛していたがゆえに、それを見ないふりをしていた。夫も恐らく、私を愛してくれていたがゆえに、それを見ないふりをしていた。もし、この世界に二人だけしかいなかったらこうはならなかったのかもしれない、と、ロマンチックな空想を繰り広げた後に、己の落ち度を思い出す。もし二人だけだったとしても、同じ結末を迎えていたのかもしれないと。

奇しくも、夫と別れてから、仕事は坂を転がる雪玉のように大きく膨れて、私はこれまで手に入れたくて仕方がなかったものを手に入れた。

「別れて良かったんだよ」という言葉は間違っていない。だって私は、お道化たお変人を気取る中で、誰にも本心を打ち明けていない上に、私の心願が成就されようとしている。何をとっても、悪いことなんてひとつもなかった。そうしているうちに、私は本心がどれかを忘れてしまった。それをいいことに「別れて良かった」を本心だと定義づけて、生活している。本当にそれが本心なのかどうかは、多分、最期の時にわかるのだろう。

全く連絡をとってはいないけれど、きっと、夫は私といた時よりも幸せにしてくれているだろうと思う。あんなにも優しい人だったのだから、幸せでいなければならないとも。

夫との暮らしは私にとって心願ではなく、助け船に近かった。助け船での暮らしは快適ではあったものの、あれやこれやと騒ぐ船員共に辟易としてしまった。そうなれば、後から乗り込んだ私が降りるしかなかった。とは言っても、私も助け船のあちこちを破損してしまっていたのだから、下ろされても仕方がない。

「最後に会いませんか」という連絡に「泣いてしまうからお断りします」と返した夫に、私はあまのじゃくなことしか言えなかった。

どれが本心なのかわからないけれど、私は今、幸せです。あんなにも愛してくれる人に出会えて、心願まで成就しようとしているのだから、これ以上の幸せはないとすら、今、思えるのです。