底辺ネットライターが思うこと

思うことをひたすら書くだけ

核心に触れないポエムを公開して悦に浸る変態

夢の中で気付くことがある。

ここで言う「夢」は起きて見る未来の夢ではない。眠って見る、脳内を探るような幻のようなあの「夢」のこと。

起きている間、どれだけ言葉を探しても、心を探っても、見えないものがある。それらのほとんどは他人のことではなく自己のこと。自分のことがわからないなんてあり得ないと考えていた時期もあった。けれどその実、己とは最も遠い存在で、具合の悪さですら自分のことより他人のことの方がよくわかる。

もっとずっと前からこんな哲学臭い文学臭い何か気取ったような文章を書いていたと思っていたけれど、改めてブログを読み返してみるともっとカジュアルで現実の匂いがする文章だって溢れていた。後、不気味で気持ちの悪い文章も多かった。自分で書いていることなのに、思っているよりも自分で自分が見えていない。

よくよく思いだしてみれば、私は一度こうした自分のおどろおどろしい文体に嫌気が差して、もっともっと馴染みの良い八方美人気取りの文章を書くことを意識するようになったのだった。たしか、社会人になってからのことだ。たしか、自分が嫌いで仕方がなかった時期だ。何も成し遂げられないくせに全能感だけに満ちていたあの頃。私は自分を捨てることでもっともっと人から愛されたかった。いびられたり殴られたりはもうたくさんだった。こうした気取りを捨てることで、もっともっと人に愛されたかった。確か、多分。

けれど実際はどんな文体で文章を書いていようと、どんなスタンスで生きていようと、愛してくれる人は愛してくれるし、そうでない人はそうあるだけ。愛してくれたとしてもいつかその愛が摩耗し底尽きる時もあれば、何もなかったそこから豊かな感情が生い茂る時もある。それをどこまで認めて割り切って生きられるかがその人を「強く」見せかけるのかが決まるように思える。

私は人に強く見られたくて割り切ったふりをして長い時間を生きてきたけれど、それは「君はひとりでも生きていけるから大丈夫だよね」という評価に繋がった。ので、あまり強く見せかけて生きない方が良いのだと今は思う。強く見せかけるぐらいなら、実際に強くならなければならないのだろう。そうでなければ自分の首を絞めて呼吸ができなくなってしまうだけ。

今日、夢を見た。自分で探していた自分を見つける夢を。

ここ数日、調子が悪いと言えばいいのか、理想通りに物事を進めることができなくてもがいていた。そうは言っても大きな問題が起こるわけでもない。未来を思い描いた時、私が今歩いている道は私が目指している未来に辿り着ける可能性を秘めている道なのだという確信すらある。体調も良い。底辺健康法とは何だったのか、とすら思うほど。必死になって健康を求めていた時よりも、健康なんてどうでも良くなって、それよりも心が焦がれる物を追い求めている今の方がよっぽど健康だ。焦がれれば焦がれるほど逃げるのかと考えると、少し怖くなる。どうやって理想を求めて行けば良いのかと。

それはさておき、調子が悪い。肉体が精神について行かないような。肉体と精神が別の方向を目指して歩いて行こうとするような。私という人間が引き裂かれそうになっているような。昔は、精神が私の本体であって肉体なぞはどうでも良いものだと考えていた頃もあるけれど、今は肉体と精神のふたつでひとりの人間で、私はどちらが欠けても心地良く生きられないと思う。もしかすると本当に引き千切れてしまえばどうでも良くなり、それぞれ心地良く生きていけるのかもしれない。けれど、引き千切る手段を知らない私にとって、それぞれが別の方向に私という者を引っ張っていこうとすることは、とても苦しいことだ。

そんな私の心身をひとつにまとめる方法を、私をなだめる方法を探していた。それを、今日、夢の中で見つけた。目が覚めた時、とても不思議な気持ちだった。

こんなポエムのような核心に触れない文章をなぜいちいちブログで公開するのだろう私は、と思いもする。けれど日の目を見ないポエムよりも、踏みつけられても誰かの目に触れるポエムの方がよっぽど意味があるのではないかと、最近思う。

こうした文章は何も考えずとも私の頭の中のもやを表現すればいいだけなので、とてもラクに書けて、とても心がラクになる。対価を得ようとして書く文章は下地作りがどうしても必要になる。それが要らない。すぐに文章として書き出せる。私にとってこうして文章を書くことは、歌うようなことだ。頭の中にたゆたっているもやを文章にして吐き出している。

最近は人に見せない文章をたくさん書くようになったけれど、だからこそ思う。私は人に文章を見られて気持ちが良くなってしまうタイプの変態なのだと。

自分が変態だと認めてしまうことはなぜかひどく気持ちが良い。昔は自分のことを変態だと公表している人は一体何を考えているのだろうかと感じていた時期もあったけれど、なるほどこういうことなのかと思う。変態だと自他共に認められる世界は、無理矢理真っ当であろう世界に自分を歪めてこじつけて生きていくよりもずっとラクだ。ラク=幸せではないにしろ、全くの不幸からは抜け出せるのではないだろうか。

こんなどうでもいいことを考えながら、日々過ごしている。こうしてキーボードを叩く時は歌うような、得意な楽器を弾くような気持ちで、とても心が清々しい。