底辺ネットライターが思うこと

思うことをひたすら書くだけ

広くて狭くて見えて見えない

ありがたいことに、毎日文章を書かせていただいている。

知らないことを知って書こうと知識を詰め込むと、脳がゆだるような熱を持つ。その熱はじっとしていたらどんどんと上がっていくから体を動かさないといけないのだけれど、そうしている間は文章を書けないから、朝早く起きて、資料を読んで頭の中に入れて、歩くか、走るか、自転車を飛ばすかする。

ゆだる頭で知識という素材をじっくりことこと煮込むと、何かしらできあがる。理解できなかったことが理解できたり、悩んでいた部分の答えを見つけたり、ただの米がごちそうに思えるほど空腹になったり。と言いつつ、こういうモードに入ると、食事がすごくストイックになる。「ここ最近はりんごとキャベツとプロテインで生きている」と話したら、「いつでもごはん食べにおいで」と言ってもらえた。貧乏だから食べられないわけではないのだけれど、ありがたいし何だか面白いので食べに行く。私のおなかを満たすために用意された暖かい食事は、この上なく美味しい。めちゃくちゃ食べるのでびっくりされる。なぜか、脳が書くことに没頭するモードになると、おなかが空いて仕方がない。動き回るから余計に空く。自分で自分が男子高校生みたいだと思うこともしばしば。

寝ても覚めても書くことと書きたいことで頭はいっぱいで、だから、ずっと脳が熱い。だから、ベッドの上には資料が散らかっている。寝る直前まで、起きてすぐ、読みたいし書きたい。

今日も書いていた。ベッドの上にうつ伏せで寝転がって上体を持ち上げて、資料を広げて、あれはどうだこれはどうだと分けて探して読んで、書いて。

疲れた、と思って、目を閉じて、上体をベッドに落とした。資料の上に顔が乗って、コピー用紙の匂いとインクの匂いがした。それはベッドよりもひんやりとしていたけれど、すぐに私の熱でぬくもった。

それが何だか気持ちよくて、ぼんやりした気分で目を開けると、視界を埋め尽くす文章がそこにあった。印刷された整ったフォント、殴り書きしたメモ、内容を手書きでまとめた方眼紙。たくさんの言葉がそこにあって、それらはすべて私が書いたもので。嬉しくて、おかしくて、ひとりなのに声を出して笑ってしまった。

人と話していると、私は本当におかしなぐらい文章のことしか考えていないのだなぁと思う。なんでこんなに書くことが好きなのだろうと考えて、ああそうかと思ったことがひとつあって、それは「言いたいことが言える」ということだった。

私はこれまでの人生、何度も社会的に殺されてきた。

「言葉の定義を考える」というマイブームの中、社会的に殺されるということの定義を考えてみたところ、「発言権を失う」という結論に至った。

辛いことを辛いと言えない。怖いことを怖いと言えない。好きなものを好きと言えない。言ったらこっぴどく怒られて、「あなたがそんなんだからひどい目に遭っても仕方ない」と言われるから。ひどい目に遭って仕方ない人間になりたくないから、ひどい目に遭いたくないから、言わなくなる。

誰も奪っている自覚なんてない。賢く生きることを教えているつもりなんだと思う。

けれど、賢く生きるなんてこの世界の誰にもできっこない。「賢い」という言葉は結果についてくるもので、結果のわからない今に対して「賢くする」ことはできない。事実、賢く生きているつもりの人が、愚かにも不幸に陥っているじゃないか。賢く生きようとすることが最も愚かなんだ、と、思う。

それに気付くと、愚かな生き方に拍車が掛かった。どれだけ賢く生きたって結果が出なければ愚かだし、どれだけ愚かに生きたって結果を出せたら賢いんだから、好きにすればいいじゃない、なんて。

インターネットの世界は広い。世界中を見ることができる。

インターネットの世界は狭い。見たいものしか見えない。

この世界はどこまでも矛盾だらけで、だから、自分の言葉を発したい。

辛いこと、怖いこと、苦しいこと、悲しいこと、楽しいこと、嬉しいこと。すべて言葉にして、誰かに伝えたい。伝わった人と一緒に笑いたい。社会の中で生きたい。

こんな年齢になってこんな誰もが知っていそうなことを知るなんて、私は愚か者なんだと思う。愚か者は愚か者らしく愚かに生きていこうと思う。

さて、そろそろ仕事に戻ろう。自分にしかできないことがある世界はでっかい宝島に見えて、だから、今こそアドベンチャーするときなのだと思っている。