底辺ネットライターが思うこと

思うことをひたすら書くだけ

憂鬱

仕事はとても楽しいけれど、確定申告は憂鬱だ。

友達付き合いは楽しいけれど、恋とか愛とか嫉妬とかは憂鬱だ。

どれもこれも、合っている自信を持てるものは楽しくて、持てないものは憂鬱だ。不安に打ち勝つことはできても、楽しむことはできないし、それに他者が加われば途端に戦意がなくなってしまう。怖くなる。憂鬱だ。「太田胃散と救心が手放せない」と笑い話で言ったつもりが、割と本気で心配されてしまった。大丈夫、良い薬です。

文章を売ることを生業にして本当に良かったと思う。仕事をすればするほど自信が持ててしまって、傲慢になりやしないかと不安になることもある。適切な自信と傲慢の見極めは、きっと他者しかできない。そしてその判断は、人によって異なる。私を傲慢だという人もいるだろうし、能力相応だと言う人もいるだろうし。誰を信じるかとなると、自分が好きだと思える人を信じる訳だけれども、「自分が好きだと思う人を信じる」という選択すら傲慢ではないかと思いあぐねることもある。結局、人という性質の正当評価なんてものは存在していなくて、その人とその周囲が過ごす環境がどうなっているのかという結果が評価になるのだろう。けれど、そうなると、私と私の周囲が良く過ごしていたとて、私の環境の隣に環境を築く人の環境がどうなっているのかということも、評価に繋がるのではないだろうか。全体は部分であり、部分は全体であり、全体は部分である。結局、結果を以てしても人という性質を正当に評価するなんてことは、できないのだろう。そうなると、傲慢と評価されるものですら、必ずしも悪質ではないのかもしれない。傲慢と評価したその人が傲慢だっただけかもしれない。「人間が生き物の生き死にを自由にしようなんておこがましいと思わんかね」という有名な漫画の台詞を思い出す。生き死にに限らず、人間が生き物を正当に評価できると思うことすらおこがましいのかもしれない。だからこそ、他者評価なんて気にせず、傲慢だおこがましいと言われようと、自分の生きたいように生きるのが生き物として自然なのだと思う。だから私は今、今まで生きてきた中で、一番自然に生きているのだと思う。

インターネットで確定申告をしようと思い立ってみたものの、結局不安に負けて税務署に直接提出しに行こうと決心したものの、来週いっぱいハードスケジュール過ぎて心が折れそうになり、少し心を休めようと思うままに書き殴ってみた。確定申告はどうしてこんなに怖いのだろう。そうそう間違ってしまうことなんてないからさっさと出したらいいのに、明日にしよう明日にしようと先送りにして余計に辛い思いをする。仕事だったら自信を持って提出できるのに、どうして公的な書類はこんなにも怖いのだろう。自信がないからだとわかっている。わかっているから逃げたい。けれど逃げられない。これが社会だ。社会正義は在れど、社会は決して正義ではない。正当な評価が存在しないのと同じように、絶対的な正義も存在しない。知っている。わかっている。知っていて今日も生きている。これぞ社会人。社会不適合者から社会人になれたかと思うと感慨深い。

不安や不満や自己嫌悪や自己憐憫や自尊心や、そうしたものの中で今日も生きている。それを余すことなく感じ取っている今、正しいかどうかはさておき、私の心はとても充足している。ところで、もし、恋のときめきによる激しい動悸の最中に救心を飲んだらその恋はどうなるのだろうか。恋ではなくなるのだろうか。そもそも恋とは何なのだろうか。こんな年齢になって初めて、そんな原始的な問題と向き合うことになろうとは思わず、毎日がストレスフルで憂鬱だ。