底辺ネットライターが思うこと

思うことをひたすら書くだけ

メリークリスマス@2018

メリークリスマスの「メリー」には、「ゆかいな」とか、そういう意味があるらしい。

年末、友人が泊まりに来る際に「テレビがなければ」ということで、テレビを設置した。別の友人がいらないテレビをくれると言っていたのを伸ばし伸ばしにしていて、ようやっと受け取ることができた。

せっかくあるので、テレビを目覚ましに使うことにした。起きたてのぼんやりとした頭に知識が飛び込んで沁み込んでくる感覚は、悪くないな、と思った。

そんな中で、私はメリークリスマスの「メリー」の意味を知った。受動的であっても知識が得られるなんて、テレビってすごいな、とぼんやりと思った。

インターネットが普及した時は「能動的に情報が得られるなんてすごい」と思った。どちらかを毛嫌いするではなく、どちらも使っていけばいいんだな、と、思った。そんな、人にとってはものすごく当たり前だろうことを、あたかも閃きのように思う自分がおかしくて、起き抜けに笑った。独り暮らしは、楽しい。

 

今年はそこまで忙しくないけれど、なんだかんだ仕事のようなことをしている。ふと、去年は何をしていたか思い返してみて、やはり仕事をしていたなと思い出す。

納期が切羽詰まっていた案件をこちらに振られて、特に予定もなく「やります」と答えたところ、「クリスマスの日にまで、ごめんね」と言われた。「そういえばクリスマスだった」とそこで気付いた。

これまで生きてきてすごく良かったクリスマス、という思い出がない。クリスマスを理由にしてその時々の恋人とデートスポットに出かけることもあったけれど、そこで特段ロマンチックなことは何もなかった。街がいつもより賑わっているぐらいだった。

大勢がこんなにも楽しんでいるんだから私ももっと楽しめるはずだと過度な期待をして、頑張って、疲弊した。

子どもの頃は、クリスマスは「プレゼントをねだる日」だった。けれど、自分が本当に欲しいものが何なのかわからなかった。高価なものはどうせもらえないから、もらえない前提でとりあえずねだった。当然のように却下されるので、そのあと、私が「欲しい」と言っても誰も怒らないもの、誰かと喧嘩にならないものの中から欲しいものを選んだ。そうしているうちに欲しいものがなくなっていって、「可愛くない子ども」になっていった。

その代わり、どうしても欲しいと思ったものを見つけた時、有り得ないほどの情熱を燃やし執着する人間になった。そうして今の私がいる。可愛げがないことには変わりないけれど、まぁ、面白い人間には育ったのではないだろうか。

 

年中行事が楽しかったのは、前の夫と一緒にいる間だけだった。前の夫は、放っておいてもとにかく楽しそうに騒いでくれた。その姿を見るのが好きだった。その姿を写真に収めるのが、2人でいる間のクリスマスの楽しみ方だった。ただ、最後に一緒に過ごしたクリスマスだけは、あまり楽しくなかったと記憶している。終わりはもう見えていた。

こんなことを書くと未練があるのではと思われるかもしれないけれど、未練は本当にない。人として素晴らしい人だと今でも思うけれど、それだけ。素晴らしい人との思い出だから語りたいし、良かったと感じた心を失いたくない。ただそれだけ。

 

今日は久しぶりにとても体が元気だ。体のどこかが激しく不調な時期をしばらく過ごしていたので、起きて掃除ができるというだけで清々しい気持ちになった。

ここしばらく、外出しなければならない時は気合いで出かけていた。気合いを入れたら不思議と何とかなるもので、タスクをこなし、すべてを終えたときにぱたりと倒れるように眠る。睡眠薬なしで眠れているので、体に良いのだろうか。ものすごく悪夢を見て何度も目が覚めるので、できれば不健康でも睡眠薬で眠りたい。

家にいる日でも、食料を買いに行く元気が出なかった。ひと気のない場所であることを優先して物件を選んだので、スーパーまで自転車で行かなければしんどい距離。近くにあるのはコンビニだけ。しばらくは玄米とコーヒーだけで生きていた。外出する日は外で食べてくるから栄養的には大丈夫だろうとたかをくくっていたけど、それが今回の体調不良を長引かせた原因だったと今となっては思う。人は食べたものでできている、ということを、身をもって実感した。

そして今日、掃除を終えて、久しぶりに食料を買いに外に出た。スーパーに置いてあるお惣菜は「今日はクリスマスだからね」と言わんばかりだった。私は何の飾りもない缶詰と野菜を買い込んだ。

帰って、食料を片付けて、植物の世話をして、仕事をして。久しぶりにゆったりと過ごしている。ありがたいな、と思った。

2018年も色々なことがあった。たくさん手に入れたし、たくさん失ったし、たくさん傷付いたし、少しだけ取り戻した。そんな激流の中で生きて、それでも今こうしてどうでもいい日記が心穏やかに書けている。当たり前のように一人で過ごせているということが、ありがたくて仕方がない。

信じる者は足元を掬われるし、心を巣食われるのが世の常だけど、信じ続けていれば必ず救われるのだと信じて。今日の夕飯は鯖の水煮缶をどうにかしてみようと思う。