底辺ネットライターが思うこと

思うことをひたすら書くだけ

独りの夜、輝く夜

独り暮らしを始めてからというもの、以前にも増して気が狂ったように文章を書いている。

狂ったように、ではなくて、狂っているのか。ははは。

ずっと前から知ってはいたけれど、文章を書けば書くほど自らと世間の「ずれ」に気付くもので、私はよっぽど普通とされる人とは違う生き物らしい……と、自覚するようになった。

これは決して「私って普通じゃないから~」という自虐風自慢ではなく、ただただ自らを客観視して思うことだということは補足しておきたい。どちらかというと、今からでも普通と呼ばれるような人になれるものならなりたいと思う。しかし、三つ子の魂から狂っているので、無理だろうと思う。

三つ子の魂百まで - 故事ことわざ辞典

独り暮らしを始めると、「もっと働かなければ」というような焦りを感じるかと思っていたけれど、意外とそういうことはなかった。むしろ、以前よりも落ち着いている。

この部屋に決めた理由は、とにかく静かだったから。周りに店らしい店はなく、少し歩いた場所にコンビ二があるぐらい。夜歩くと、真っ暗な道の途中が突然コンビニの明かりで明るくなって、幻想的にすら思えるほど。集まる場所がないから、皆、家に帰る。皆、いつも、どこか集う場所を探しているのだろう、

少し離れた場所に、商店街がある。寂れてはいるけれど、ほど良く活気がある。閉まっている店もほとんどないし、いつも人が行きかっている。そこに、食料の調達にたまに伺う。昔ながらの八百屋に肉屋。少し昔にタイムスリップしたような気にもなるけれど、その場所はずっと前から通っていたような気がするほど心地良い。

今日は、八百屋で白菜を買った。大きな白菜を、丸ごと一玉。独り暮らしでそんなに食べるかと思われるかもしれないけれど、丸ごとの白菜は、葉をちぎりちぎり食べていけば、とても長持ちするのだ。ひと冬の間、もつと言われているほど。

私は独り暮らしをする時、どれだけお金に余裕がある時でも、しばらくは貧乏だと思い込んで生活をする、と決めていて。今はそれをとてもとても楽しんでいる。家具に関してはそこまでけちることはしないけれど、食だったり、消耗品だったりについては、とことんケチるようにしている。

これまで、肉は一度も買っていない。鶏の皮ばっかりをたくさん買い込んでいる。この部分が嫌いだという人もいるけれど、私はとても好き。味はもちろんのこと、調理する過程も楽しくて好き。

鶏の皮を鉄のフライパンに放り込んで、がんがん火を焚くと、どんどん油があふれ出てくる。鉄フライパンの中はすぐになみなみの油で満たされて、鶏の皮は自らが出した油で揚げられていく。この変化が、とても楽しくて仕方がない。

私はいつもこの光景にうっとりと見惚れ、うっかり焦がしてしまう。毎度のようにそれを繰り返している。そろそろ良い加減を覚えねばと思いつつ、あまりにも楽しくて。

この油は、香味野菜と一緒に火を通して保存すると、炒め油なんかにも使えるらしい。が、私はそれはしていない。ライターをしていると色々な健康情報に触れるものだけれど、「油の酸化」が気になってしまう。熱を通した油なんて、使う時にすっかり酸化しきっているのではないだろうか。なんて、思っている。実際には外食でたくさん摂取しているのだろうけど、見てわかるものは、気になってしまう。

こうして作ったおかずに、味噌汁に、玄米が、いつものご飯。

玄米なんて、質素なふりをしながら白米より高いんじゃないの、と思われたかもしれない。私も、今の世では玄米は白米よりも高価だから、貧乏暮らしがモットーの今、諦めなければいけないと思っていた。

しかし、不思議なもので、引っ越したタイミングで、なぜかクライアントから大量の玄米をいただくことになった。引っ越す、とか、米代が、だなんて、一言も話していない。それなのに、まるで私が欲しがっていることを知っているかのように、大量の玄米をくれた。驚いた。

米代ってどんなもんだったっけ、高かったっけ、と考えていたら、調べるよりも早くいただいたので、とても不思議な気持ちになった。

最近は、こういう不思議なことが割とよくある。「ああ、欲しいなぁ」と思っていたら、ぽんと目の前に現れるというようなことが。

文章の仕事を始めてから、縁というものの不思議さやありがたさを思い知ることがとても多くある。これまで何を頑張っても得られなかったもの、気付けなかったものが、ただ自分のやりたいことを真剣に誠実にやろうと腹をくくっただけでこんなにも。あまりものありがたさに涙することも珍しくない。

もちろん、辛いこともたくさんある。「女ひとり自営業、やっていきたいんだったら」なんてしょうもないことをのたまうおっさんもいる。もっと酷いことを言う人も、する人も、いる。

けれどその度に、私は誰かに助けられる。もう駄目だろう、もう誰も私のことなんて助けてくれないだろう、好きなことを好き勝手やっているのだから仕方ない、独りでだって生きていってやるさ……と思うのに、いつも、誰かが助けてくれる。

それは、文章の仕事を始める以前からそうだった。生きていることが辛くて逃げだそうとした私を、この世界に繋ぎとめてくれる人たちがいた。だから、私は今生きている。それは、今の仕事うんぬんは関係のないところだと思う。

けれど、なんだろう。自分のやりたいことをやって築いた縁や信頼関係がそこに在ることの喜びがそれに加味されて、余計に嬉しくなる。私のやった仕事がそれだけ評価されたということでもあるのだから。もし適当な仕事をしていたら、きっと、今みたいにはなっていなかっただろうから。

なんてことを考えながら、食事をする。そうすると、質素だなんてことを忘れるぐらい美味しくて、心が満たされて、ああ生きていて良かった、と思える。

心にも少し余裕が出てきて、本を以前よりも読むようになった。ゆったりと心に余裕を持ちながら本を読む時間を持つだなんて贅沢、あと何年先になるかと思っていたけれど、ぽっと手に入ってしまった。私にとっての贅沢なんて、ちっぽけなものだ。

最近、読んだ本。短い時間で読める短編が欲しいなぁと思って手に取った。思ったより内容が軽くって拍子抜けした。けれど、この小説の中には女性の語りが多くあって、その軽やかさに、少しだけ影響されたりしている。

輝く夜 (講談社文庫)

輝く夜 (講談社文庫)

 

とはいえ、私は読むよりも書くことの方が好きで、読んでいる時間よりも書いている時間の方が圧倒的に長い。このブログも気が付けばなかなかの文字数になっている。時々、自分で驚く。書くことは、なんてこんなに楽しいのだろう。嫌なことも時間も全部忘れて、書いてしまう。

もっと、もっともっと、もっとたくさん書きたい。それを誰かに読まれたい。そして何かを言われたい。否定でもいい。肯定的な感想だったら大喜びだ。私は文章を褒められることが好きなのではなく、それを通して心を触れ合わせたり、議論をしたりするのが好きだ。

否定されることが怖いと、ブログを書く前は思っていた。けれど、否定されればされるほど、自分の中の感覚がどんどん研ぎ澄まされて、今まで見えていなかった自分が見えることがある。それは新しく現れる訳ではなく、ずっと前から私の中にいたんだけど、目を向けていなかった自分。そうした存在に「否定」で気付くことがある。そうしてたくさんの自分と向き合えることが、とても楽しいし嬉しい。すごく悲しかったり悔しかったり腹が立ったりするけれど、それでも、自分と向き合って会話できたときの喜びがとてつもないもので。私という人間がどんどん研ぎ澄まされて尖っていく。

それを望まない人もいる。丸く朗らかで柔らかく、刺さっても痛くないような風体でいた方が喜ぶ人もいるだろう。

けれど私は、自らが尖って光ることが、とても誇らしく思える。

今は、こうして核心をつかない話ばっかりブログにしたためているけれど、いつかもっと、核心をついた話ができるようになりたい。そしてもっと研ぎ澄まされて尖って、もっともっと他人と、自らと、社会と向き合っていけたら。

そんなことを夜、独り、小さな部屋で思うのでした。