底辺ネットライターが思うこと

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アロマティカスとカランコエと美味しいと思える食事と

アロマティカスと、カランコエの株を買った。

昔は、土いじりなんて嫌いだった。家に花を飾ったり、草を育てたりする人の気が知れなかった。喋りもしなければ寄り添ってくれもしないし食えもしない、そんな植物に愛を注いで何になるのだと思っていた。花は造花が好きだった。鉢植えよりも切り花が好きだった。もし枯れたとしても、切り花だったら、枯れて当然で私に何の責任もないから。

今は、造花よりも切り花が、切り花よりも鉢植えの花が好きだ。鉢植えに咲いた花を切り花にして、飾るのが好きだ。植物の力を借りて、何かを成し遂げたような思いを味わえるから。何も成し遂げていなくても。

カランコエは、以前の家で、投げ売りになっていた赤い花を咲かせる株を買って育てたことがあった。

好きな花びらの形ではなかった。好きな色でもなかった。ただ、何か花を育ててみたいと思っている時に投げ売られていた。一年草は何だか寂しいので、多年草か宿根草が良かった。それだけの理由で、カランコエを育てた。

ベランダで、横長のプランターに適当に植えたカランコエは、毎年もの間、赤い花を咲かせた。渋みの全くない鮮やかな赤色。赤い花、というと、どことなくおどろおどろしいイメージがついて回るけれど、その花の色はそうした様相を一切持っておらず、「太陽の下で育ったのよ」と語るような素直な赤色だった。

冬になるとベランダに出て水を撒くのが辛くなって放っておいたことがあって、その時、カランコエは丸裸の低木になった。温かくなったら処分しなければならないなと思って見ていたのに、温かくなると、私が水を撒くよりも早く緑色の茎が生えて、たくさんのつぼみを付けた。

株が大きくなればなるほど花の数も増えて、花が咲くと、風に飛ばされて赤い花びらが辺りを舞った。それがとてもきれいで、カランコエが好きになった。花が開き切った頃に切り花にして、食卓に飾った。洒落た料理なんて出ない食卓だったけれど、とても豊かに感じられた。

アロマティカスも、以前の家で育てていた。「シソ科」のはずなのに、全くシソらしさのない、肉厚な小さな葉。茎もしっかりと肉が付いていて、それ故に押せば簡単に折れてしまう。柔軟性のない柔らかい茎と葉が、どっしりとした外見に反して繊細さを思わせた。

しかしながら、アロマティカスは他のシソ科植物と同様に、とにもかくにもしぶとく丈夫だった。うっかり折れてしまった茎や、不格好だからと切り取った茎を水に差しておいたら根が生えるし、大きくなったら株を根っこを適当に引き裂いて分けて植えると、1株が2株に増える。最初は、茎を折るなんて酷いこと、と思っていた。けれど、こうした生命力の強い草木にとって、折られて水に差されることの方が幸福であることもあるのだと知った。

ミントよりも甘く、甘い花よりも爽やかな香りで、私はその見た目よりもその香りの虜になった。今も、気が向いた時に鉢を手に取って鼻に当てて、それを楽しんでいる。

 今、アロマティカスとカランコエを買ったのは、育て方を知っているから、だった。植物はそれぞれ育て方があって、それを知らずに繊細な植物を買ってしまうと、みるみるうちに枯れてしまう。それが嫌で、私は生命力強く育て方を知っているこの2つを選んだ。

ふと、初めてこれらを手に取って、家に根付いた株を楽しんだ時期を思い出すと、ああ、と思ってしまう。

後悔はしていない。あの家に根付いた株を手放さなければ手に入らなかったものがたくさんあるから。

けれど、もしあの家に根付いた株を手放さなければ手に入っていたものがあるのだろうか、と、少しだけ思ってしまった。

こういうことを考える時は、大体お腹が空いている時か体が冷えている時で、温かいお味噌汁を飲んでいるうちに、何を考えていたか忘れてしまう。

今日は先日丸ごと買った白菜の固い部分ばかりを具にした。葉は、別の日に蕎麦に入れた。鶏皮を煮た汁をつゆに仕立てて葉野菜を入れて蕎麦にすると、とても美味しい。鶏皮には無限の可能性を感じる。そろそろ夜が冷えるようになってきたので、焼いたり揚げたりするよりも煮込む方が美味しいように思う。焦がしてしまう心配もないので、私には煮込み料理の方が合っているのかもしれない。

こうして独りで食を楽しむことなんて、随分と長い間、忘れていたなぁと思う。ここ半年程、ストレスで胃を潰して、とんと食べられていなかった。気の知れた人と一緒であれば何とか食べられたけれど、それ以外の独りの時、食事が喉を通らなかった。心底嫌な人との食事は、味を一切覚えていない。「美味しいですね」と嘘を吐いて、酒で流し込んでいた。

最近になってようやく、その人と食事をしなくていいどころか顔を合わせなくても良い環境になった。そのおかげで、少しずつ、まともに食事ができるようになってきた。顔色が良くなってきたと友人が喜んでくれた。色々あったけれど、これで良かったんだなぁと思った。

食事は、とても大事。何があっても、とりあえず食べることができて、美味しいと思えれば生きていける。

何を食べても美味しいと思えない時はすべてうまくやっていると思っていても何かを間違えている時だし、ただの米が泣くほど美味しく感じられる時は何もかもがうまくいっていないように見えても正解を選べている時だと思う。

今大事だと思っているものを守ることが正解ではない時もあって、生きていくのは、本当に難しいなぁと思う。それでも食べていれば生きていけるのだから、生きていくのなんて簡単なもんだなぁとも思う。正解なんてわからない、以前にもどこかに書いたけど、所詮私は私が幸せに生きるためのモルモットでしかない。

値段や他者評価ではなく、自分の舌で味わって美味しいと感じられる瞬間。その瞬間は、食事の質だけではなくて、その時の心とか、立場とか、色々なことが絡んできて。そういうのを全部ひっくるめて「美味しい」のだと思う。

私は最近、食事が美味しいと思う。心から。私ってこんなに料理上手だったっけ、と本気で思った。

私なんて、そういうしょうもないことが幸せで仕方ないしょうもない人間だ。けれど、そんなしょうもないことを一緒に楽しめる友人や仲間がいてくれて、私は本当に今幸せに過ごせている。

 

今日の仕事を終えて、特に何も考えずに日記をブログにしてみようと思ったら、気付いたらこんな時間になっていた。いつもはこういう日記を、もっと具体的な感じでノートにしたためている。ノートに書くと右手ばかりを酷使することになり、毎日やっているとまた右手が麻痺しそうになってきたので、たまにはパソコンでと思ってやってみたのだけれど、疲れが分散されていくらでも書いてしまうから困った。

明日はとても早起き。そろそろ寝ようと思います。おやすみなさい。

id:c_shiika 折れた茎を水に挿すと多分根っこが生えてくるし、土に根付いた根っこに水をあげ続けると多分なにかが生えてきます。 植物は、人間の「とりあえず食べていたら生きていける」を凌駕する、美しさをも感じる生命力を持っています。ぜひ試してみてください。